外国语学院20xx届日语专业毕业论文定稿格式要求及模版(编辑修改稿)内容摘要:

た。 6 原文の引用はいずれも築摩書房の『現代日本文学全集 井伏鱒二集』による。 三 小説の中に出てきた動物についての分析と比較 1 山椒魚――その境遇、心理、性格及び寓意について 頭でっかちになって、棲家である岩屋から出られなくなった山椒魚は岩屋の狭い出入り口から外界を眺めることを好んだのである。 彼は谷川と水の中の生物 を眺めるだけではなく、自由の可能性をも眺める。 どうしても岩屋の外に出ようと決心して、全身の力を込めて岩屋の出口の突進した結果も、頭は出口の穴につかえて、そこに厳しくコロップの栓をつめるという結果に終わってしまった。 「それ故、コロップを抜くためには、彼は再び全身の力を込めて、うしろに体を退かなければならなかったのである。 」 この境遇にいる山椒魚は、外へ出ようという決心は、どんどん弱くなっていくはずだろう。 彼のひとり言を見てみよう。 最初に「何たる失策であることか。 」と彼は二年前に彼の間違いを深く悔やんだのであ る。 悔やんだ後は外へ出ようと試みた。 一度失敗した後は「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」と呟いた。 決心は相変わらず口調は既に柔らかくなった。 何度も努力したが、さらに小蝦の前に失敗して、嘲笑された後は「ああ神様。 あなたはなさけないことをなさいます。 たった二年間ほど私がうっかりしていたのに、その罰として、一生涯この穴蔵に私を閉じ込めてしまうとは横暴であります。 私は今にも気が狂いそうです」と涙ぐんで神様を怨みはじめた。 「ああ神様、何して私だけがこんなにやくざな身の上でなければならないので す。 」という怨みは、これは自分の運命だろうかという疑いを引き起こした。 以上の山椒魚の心理活動から見ると、彼は次第に絶望の縁に近付いていっていると言える。 「外界に行こう、自由を求めよう」という希望も月日の経過とともに、あるいは幾度もの失敗の故、だんだん 消えていってしまっている とも言える。 希望が消えていくのと同時に、限りない孤独感と絶望が 心を占領す るようになった。 しかし、山椒魚の絶望は純粋な絶望だろうか、彼の思想の中に絶望と矛盾するものがないか、私は疑問を持っている。 実は、山椒魚の心の奥底には表面か ら見つけ られないその岩屋あるいは彼の棲家から離れたくないという矛盾した考えが 潜んでいるのではないだろうか。 理由は以下である。 まず、山椒魚は「杉苔の花粉はしきりに岩屋の中の水面に散ったので、彼は自分の棲家の水が汚れてしまうと信じたから」、「杉苔や銭苔を眺めることを好まなかった、寧ろそれ等を疎んじさえした」。 つまり、彼は既にその岩屋を自分の棲家としていたのである。 この微妙な心理は彼の矛盾の基盤とも言える。 そして、岩屋の出入り口から時々外を眺める山椒魚は、もし自由のみを非常に 強く望んでいたのなら、 目高とか、小蝦とかなどの 小動物をつれなく嘲笑することはしないだろう。 勿論、他の動物に対する嘲笑にしても、悪罵にしても、彼の内心の空虚や不満の証拠とも言えるが、長い間穏やかな生活の影響で形成した安逸感が心の奥底に根付いたからではないだろうか。 そして、山椒魚と「誤ってまぎれこんだ」一匹の蛙との喧嘩も、彼の心理の矛盾点の証拠である。 山椒魚にとって、いつも水の中に自由に水底から水面に突進したり、列を作って泳いだりした蛙の狼狽した様子を見ることは、何よりも痛快なものである。 その痛快という感覚の中には、 自己に対する慰め も、平等ではない世の中へ の報復も含まれる。 そして、蛙の登場は山椒魚の平板かつ孤独な生活に一石を投じた。 彼は最も重要な相手役として、山椒魚の生活を一変に変えた。 尐なくとも、無言の世界が打ち破られた。 表面から見れば蛙の到来に対する抵触の態度を持っている山椒魚が、内心ではこれを歓迎していることは言うまでもないことである。 しかし、蛙を歓迎する気があっても、尐しも排斥する気がないとは言い切れない。 蛙との激しい口論は自分の不満を表すとともに、外界からの彼がずっと望んでいた自由の象徴である蛙に対する排斥もはっきりと見える。 河上徹太郎の解説によ ると、「山椒魚の持つ詩情と寓意は、一読明らかである。 …それはボードレールがよく使った、詩人の人間的失格の喩えだが、然しもっと辛辣で、もっとユーモラスである。 何ゆえならこれは絶対に見物人のいない喜劇であり、絶対に救い手のない悲劇だからである。 つまり正真正銘の孤独である。 彼は目高が群れをなして皆が行く方へ自分も行くのを嘲笑ったり、うっかり岩屋へ舞い込んだ蛙を自分の頭で入り口を塞いで閉じ込めて困らせたり、…のを観照したりする。 しかしそれらは山椒魚自身の生活とは関係ない ことなのである。 彼はこういう自分と関係ないもの で自分を表現せねばならない。 この倦怠は美しいけれど、絶望的である。 彼はいつとしかこういう外物と化する。 そしてかくの如く、井伏が山椒魚と化するのである。 そういう自嘲と詠嘆をつきつめたのがこの作品である」 7という。 そのとおりである。 山椒魚のその矛盾性は、当時の作者の内面的矛盾をも明瞭に示しているのではないだろうか。 まず、小田切秀雄の言い方を借りれば、「彼は岩屋のそとの急流や、意外なところにある窪みに入ることを避けて、大正から昭和の大転換期の、時代の急流や淀みに入ることをおそれて、身体は安全な場所におさめておい て外界をのぞき見することだけを好んだ、という存在として、魚と人間が重ねあわされる」 8と述べている。 彼が指摘した 「急流 」は当時の文壇ほかならない。 昭和文学の始まりであった当時は、「太宰の言うで『これからは、このような作品が解らぬと、文学を語る資格がない』と言った気負った未熟な試みが、ジャーナリズムを風靡し、作者も読者も、それに巻き込まれた時代と言えませう」 9。 文壇へ進出した後、世俗一流の道に反撥するところから出発した井伏は、長い間無名作家として平板な生活を送っていた。 彼の独自の作風が理解され、認められるまで には、かなりの年月を要したからである。 井伏は韜晦しながら、矛盾の渦の中に自分の進路の瞑想に耽っていた。 そういう時代の空気の中で、井伏は、文学の領域における、自分を作家として生かす道を見出して、一定の成果をおさめたい気持ちと、時代の波を追って当時の既成流派に屈従しない思想とが、内面で火花を散らしていたことは容易に推察できる。 これも、「山椒魚」を発表する際、「幽閉」を改題し、末尾に加筆した原因である。 今日私達が目にする「山椒魚」は「幽閉」とは長さ、用語、用字、文体などがはなはだしく違う。 最も著しい相違点は蛙の登 場である。 「幽閉」には、蛙が登場しないが、外界から絶縁された山椒魚の感傷的な独白である。 蛙の登場と両者の対話により、山椒魚の内面世界や性格についての表現はいっそう深まり、作者の意図も明らかになり、「幽閉」から「山椒魚」へ質的な飛躍を遂げた。 それだ 7 河上徹太郎『 井伏鱒二集 』 解説 P431、築摩書房 1953。 8 小田切秀雄 『現代日本文学史 下巻』 P404、集英社 1975。 9 中村光夫「井伏鱒二論」、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二・深沢七郎』 P46、有精堂 1977。 けではなく、前文に述べたように、作家の内心の矛盾をも表現できた。 以上のことから見れば、井伏は山椒魚の矛盾な内心を通して、当時の自分の内面の矛盾や足掻きを表したと言える。 井伏は山椒魚と同じように、自分を現世より遠い「内心の岩屋」に閉じ込まれた。 その矛盾の心情は、彼の 自分の持ち場を限定して、個性を保つ理由であり、また、世俗の文壇とを隔絶する「コロップの栓」である。 2 山椒魚と他の動物との関係及びその寓意 A 山椒魚と蛙 この短編で、蛙は二箇所で現れている。 一箇所は山椒魚が出入り口から眺める視野の中に入った蛙であり、もう一箇所は、前文に述べたように、岩屋にまぎれこんだ蛙である。 前者は自由なものであり、山椒魚はそれなどの「活発な動作と光景とを感激の瞳で眺めていたが、やがて彼は自分を感激させるものから、寧ろ目を避けたほうがいい」と感じさせる存在だった。 それは羨望心か、嫉妬心 か、或いは不満な気持ちか、 いずれにしても 、悲しんだ山椒魚をもっと悲しい世界に導いた。 それに対して、後者は、山椒魚にとっては、意味深いものである。 前章の「山椒魚の内心の矛盾」や 「井伏が『幽閉』を加筆改稿した 」というところで既に触れたが、ここでは、さらに詳しく分析してみたい。 山椒魚が蛙と一緒に暮らした二年の間に、両者の関係は、それぞれの内心活動の変化とともに、変わっていった。 時期に分けると、大きく「対抗」、 「沈黙 」、「和解」という三つの 部分に分けられる。 そのうちの、 「対抗 」の時期は最も面白くて意味深い部分 である。 「そこで、山椒魚の孤独は滑稽化され、彼と蛙との争いは、当事者たちが真剣であり、両者の境遇が絶望的であればあるほど、読者の失笑を誘います 」10と中村光夫は評している。 実際は、山椒魚と蛙の口論を細かく味わえば、人間社会における人間関係の影が見て取れる。 作家がその争いを描写するのは、単なる読者の失笑 10 中村光夫「井伏鱒二論」、『日本文学研究資料叢書 井伏鱒二・深沢七郎』 P46、有精堂 1977。 を誘うためではないだろう。 井伏の内面の矛盾を表すほかには、社会における人々の心理状態に対する啓示と風刺も含まれるだろう。 人生の低潮あるいは逆境に遭っても、弱音を吐かず、力を奮って困難を克服する人は畢竟、多くはない。 多数の人は、自分にも、世の中にも、憎しみの声が道に満ちて、他人の成功には、 嫉妬のこもった眼差し で見つめている。 もし他人は自分と同じ状況に陥れば、すぐ勝者の姿勢で皮肉を言ったり、嘲笑したりするに違いない。
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