日语论文范文四十五:村上文学における「癒し」について内容摘要:
しかったという。 エッセイにおい て彼は、冷蔵庫も、洗濯機もなかったと振り返る。 開店するための資金も借金だったというから、その返済のために、働き詰めであっただろう。 その中で彼は小説を書くことに癒しを求めたのである。 親が学校の先生だったこともあり、本屋につけで本を買って読めたこともあって、小説というものが彼の近くに常に存在し、小説を書こうという思考が容易にできたのではないだろうか。 心理学的に言うならば「昇華」、そして、 3 箱庭療法ともつながりがあるこの行動について 4 平山満紀氏の言葉を借りれば、 「自己省察性が低く、自己表出性が高い」 活動であり、 「 癒しを求めている自己について反省せずに直感的に表現を行なっていること」 であるという。 何らかの形で自分の思っていることなどを形にし、それが自分を癒すことであるとの認識が例えなくとも、それは一種の自己治癒活動であるというのだ。 この点については村上春樹氏の小説における精神性の点の章でまた触れること になるが、とにかく、村上春樹氏の言葉にもある通り、彼の小説は 「小説によって自分が癒されるということはあるわけですが、それにはもちろん同時に読者を癒すものでなくてはならないわけです。 そうしないわけには小説として作用しませ ん」 という小説に対する認識の上にあるものであり、また 「読者のある部分を多かれ少なかれ治療するもの」 である。 その、読者を癒すということがまた、作者を癒す、というものであるわけである。 この認識については心にとめておく必要がある。 第 3 節 村上春樹の 「第三ステップ」 一九九四年には、前に述べたように、作者としてのターニングポイントである作品『ねじまき鳥のクロニクル』が出版される。 この作品は一九九四年に一部、二部が出され、三部が一九九五年に出されたのだが、二部が出た時点でこの作品は完結したのか、三部で果たして 完結しているのだろうかなどという議論を呼んだ。 この作品はその長さからも、『世界の終わりをハードボイルドワンダーランド』と似た要素という面からも、多くの批評家にこぞって論議され 12 てきた感がある。 しかも、興味深いのは作者自身、この作品が転換期であったと捉えている事である。 「物語をやりだしてからは、物語が物語であるだけでうれしかったんですね。 僕はたぶんそれで第二のステップまでいったと思うんです。 」 「『ねじまき鳥とクロニクル』」は僕にとって第三のステップなのです。 まず、アフォリズムデタッチメントがあって、次に物語を 物語るという段階があって、やがてそれでも何か足りないというのが自分で分かってきたんです。 そこの部分で、コミットメントが関わってくるんでしょうね。 」 と、彼自身語っている。 アフォリズムとは、簡潔な言葉での社会描写であり、デタッチメンドは、ここでは関わらないこと。 そしてコミットメントは関わること、の意味で、それが『ねじまき鳥のクロニクル』においての主題となっているのである。 日本のべたべたなコミットメントのことを『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』において、彼は学生活動を例にあげて述べている。 これは『ノルウェーの森』 の小説の中でも学生活動が取り上げられている理由でもある。 日本的なコミットメントというのはどうしても、一丸になってしまうきらいがあって、集会などに出席しないと「お前は付き合いが悪い」などと言われてしまう。 彼はそのような日本的コミットメントが嫌だったようである。 「日本にいる間はものすごく個人になりたい、要するに、色々な社会とかグループとか団体とか規制とか、そういうものからほんとに逃げて逃げて逃げまくりたいと考えて、大学を出ても会社にも勤めないし、一人でものを書いて生きてきて、文壇みたいなところもやはりしんどくて、結局ただ、ひとりで小説を書いてました」 と述べているように、日本とその社会とは完全にデタッチメントな立場をとり、外国に住居を移すまでであった。 確かに、現代社会は「個人主義」と言われるように、周りとのコミュニケーションを密接にとるというようなことはなくなって きている。 昔は、しょう油を借りに隣の家に、というようなことがあったようだが、今では隣に誰が住んでいるのかも分からないような状態なのである。 そうしたデタッチメントな社会と作家自身の経験などを物語に置き換えたのが『羊をめぐる冒険』であり『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』であったのだ。 両方ともの結末では、確かに孤独感が支配していて、主人公は一人きりである。 喪失感、孤独 13 感といったものでそれまでの村上春樹の物語の世界が支配されているのは、そのせいであると言える。 ここまできたところで村上春樹氏は自分にリア リズムの文体をしっかりと身につけるために『ノルウェーの森』を書く。 すなわち、 5 加藤典洋氏によると 「お新香やお茶漬けがでてこれる小説を、というのがあったんでしょう」 ということであり、 「それまで自分の小説は、そういうものが出てこられない小説だった。 何か食べるとしてもチーズトーストとかね。 でも、お茶漬けが出てくるような小説を書けるようにならないと、文体の幅は広がらない。 だから、緑が町の本屋さんの娘だったり、出し巻きたまごやら煮物やらを色々作ったりする場面、ああいうところに実は大変な意味が作者にとっては込められたり する」 という意味合いが、この小説の目的であったと言うのである。 このことは前に紹介した作者自身の言葉にも表れていて、まさにこの通りであると考えられる。 そして次の作品からそれまでの孤独、喪失感に支配されてばかりの作品世界が少し変わったような印象を受ける。 それは『ねじまき鳥のクロニクル』という、村上春樹氏の言う「第三ステップ」へ移る、途中の段階であったと考えられる。 『ダンス・ダンス・ダンス』では、ゆきを失った時、確かに主人公は喪失感を覚えるが、最後の場面ではユミヨシさんは壁の暗闇から戻ってくる。 それまで、壁の向 こう側に行った人間、向こう側に存在する人間の多くは失われてきた。 しかし、この小説では失うことなく、最後に主人公は「ユミヨシさん朝だ」と言っている。 そして「第三ステップ」である『ねじまき鳥のクロニクル』では壁の向こう側の世界に行ってしまったクミコの存在を自分の力で取り戻している。 その壁を抜けてクミコの存在に関わるという点、その取り戻すためにバットで殴り殺すという暴力を使用した点に、この作品の中心があるように思える。 井戸に比喩された、精神の深いところ、そこまで潜っていって精神的な「壁抜け」をしなくてはならない。 非常にエネルギーを使うものだ。 そこには暴力がある。 そして、その壁抜けの時点で「つながる」。 阪神大震災を思い出した村上春樹氏がこの小説を書いた時点ではまだ遭遇していないが、そうした「自然の暴力」を受けて初めてボランティアといった。日语论文范文四十五:村上文学における「癒し」について
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