日语留学论文:日本語の「は」と「が」について内容摘要:

に有題には顕題と陰題の場合があると述べている。 野田尚史( 1984)、丹羽哲也( 1988)は三上の学説を受けて、「有題文」 ・ 「無題文」という呼 び方を始める。 ただそれらは松下の論理と範囲が違うのである。 例えば、松下によれば、有題の文にはすべて「は」が使われる。 三上は陰題という概念を出してから、「有題文」の範囲を広げた。 「陰題文」は「有題文」と呼ぶが、「が」が使われる。 すなわち、三上以降の「有題文」には「は」が使われている文だけではなく、「が」が使われている文も含めている。 これから、「有題文」を言う場合はすべて三上以降の「有題文」の意味である。 三尾の「判断文」は「題目―解説」構造を持つ、「有題文」であると理解されている。 一方「現象文」については、 「無題文」であると理解されている。 これについて野田尚史と丹羽哲也は反対の意見を持っている。 野田( 1996)は、「現象文」というのと「無題文」というのでは、一見、同じものを指しているように見えても、その規定は根本的に違うことであると指摘している。 現象文というのは、判断文と対立させた文の分類である。 現象文の規定は„„主題をもっているかどうかではなく、話し手の判断が加わっているかどうかということが中心になっている。 そのため、主題を持っていないと考えられる文でも、話し手の判断が入っているということで、 現象文ではなく判断文に分類されることがある。 一方、無題文というのは、有題文と対立させた文の分類である。 これは、文が主題を持つかどうかという点から分類したものである。 このような現象文と無題文は、重なる部分も大きいが、基本的にはまったく別のものである。 (野田尚史( 1996)) 「現象文」と「無題文」、「判断文」と「有題文」との間に対応関係がないことは、丹羽哲也( 1988)にも詳しく論じられている。 以上のような分析を通して、佐久間と三尾は二人とも松下の論理の影響を受けて、それぞれ「物語文」と「品定 め文」の論理、「現象文」と「判断文」の論理を提出する。 佐久間と三尾は松下の学説を継承し発展させ、三尾はさらに佐久間の学説を進めているといえる。 野田と丹羽は「現象文」「判断文」と「無題文」「有題文」の間に対応関係がないことを示した。 以上は、文の性質の分類として、松下、佐久間、三尾という三人の学者の学説を紹介して、その共通性と差異性を比べてみた。 三つの学説とも「は」と「が」の使い方の学習として欠かせない理論である。 このほかに、これらの学説を受けて発展させる三上の学説は今でも影響力がある。 三上章の学説 次は、三上章の学説を紹介して、以上の学説との関係を解明してみる。 上には述べていたように、三上章( 1953)は松下の「有題」「無題」という対立概念を受けて、さらに「有題」を「顕題」と「陰題」に分けている。 三上( 1959)は有題の文には、「顕題」に対して、「略題」の場合があることも指摘している。 はっきりわかるように、ここで三上の有題(顕題、陰題、略題)と無題の表す例文を引用する。 問 偏理ハ、ドウシタ。 ―― 到着シマシタ。 (略題) ―― 偏理ハ、到着シマシタ。 (顕題) 問 ダレガ到着シタ(ンダ )。 ―― 偏理ガ到着シタンデス。 (陰題) 問 何カニュースハナイカ。 ―― 偏理ガ到着シマシタ。 (無題) 陰題の文は、語順を逆さにして顕題の文に直すことができる。 到着シタノハ、偏理デス。 (顕題) (三上章( 1959)) 三上章 (1953)は佐久間の学説を継いで、事象の経過を表す「動詞文」と事物の性質を表す「名詞文」(形容詞や名詞で結ぶもの)との区別を立てる。 「動詞文は係助詞「ハ」がなくても完全でありえるのに対し、名詞文は「ハ」に助けられるのを原則とする」と述べている。 そして、三尾砂の学説の 影響を受けて、初めて「措定」と「指定」という概念を出し、文には「措定文」と「指定文」があることを指摘している。 包摂判断を表す「措定文」は三尾のいう「典型的な判断文」にあたり、「指定文」は三尾のいう「転位文」にあたると考えられる。 三上は三尾よりさらに「指定文」になれる条件を明確にしている。 すなわち、名詞文の中でも、述語が代名詞や固有名詞 (ただし単に名前を紹介する目的の場合を除く )であるものは、本来の語順をひっくり返してできること、疑問文は疑問詞を強調して指定になりやすいなどのことを指摘している。 以上のよう に、三上は松下、三尾の学説を一歩前進させたといえる。 佐治圭三の学説 言うまでもなく、この四人の学説のほかに異論を持っている学者はいる。 例えば、以上と関連がある学説には佐治圭三の学説がある。 そこで次は佐治の学説を紹介して、上の学説との関係を解明してみる。 佐治圭三は述語文を主題とそれに対する解説の部分からなる題述文と事物 ・ 現象の存在を表す存現文とに分ける。 詳しい分類は次の引用部分のようである。 存現文は叙述部だけから成る文である。 題述文には顕題の文と陰題の文があり、陰題の文には転位 ・ 陰題の 文と、状況 ・ 陰題の文がある。 名詞文、形容詞文は常に題述文である。 動詞文は存現文である時と、題述文である時とがある。 ある種の所動詞や知覚動詞が述語になる時には、題述文にしかならない。 また存現文は常に確言 ・ 肯定の平述文である。 (佐治圭三( 1973)) 次は例を挙げながら、佐治の学説は佐久間と三尾と三上の学説との関係を明らかにする。 例文はほとんど佐治圭三( 1973)から取っている。 ( 15)クジラは動物だ。 ( 16)日本の首都は東京だ。 ( 17)東京が日本の首都だ。 佐治によれば、題述文のうち、「 A は B だ」〔 A< B〕のような名詞文( 15)と「 A は Bだ」〔 A= B〕のような名詞文( 16)とがある。 後者の場合は「 B が A だ」のような名詞文( 17)を言うことができる。 ( 15)と( 16)は佐久間の「品定め文」であり、三尾の「判断文」である。 ( 17)は三尾の「転位文」にあたり、三上の「陰題文」(「指定文」)にあたると思われる。 佐治は叙述の内部に主題が含まれているような陰題の文を「転位 ・ 陰題」の文を呼んでいる。 ( 18)クジラは大きい。 ( 19)山が美しい。 ( 18)について、佐治は「題述文」と呼んでいる。 これは佐久間の「品定め文」で、詳しく言えば、その中の「形容詞 ・ 形容動詞文」である。 これは三尾の「判断文」である。 ( 19)になったら、学説の違いが見える。 佐治は、このような文は「その全体が状況を主題とする叙述であり、その主題が顕れないところの陰題の文であると把握できる」ので、この種の文を「状況 ・ 陰題」の文と呼んでいる。 佐久間と三尾はこのような例文に触れていない。 ( 20)雨は降っている。 ( 20)は主題として顕在する文であるので、佐治はこのような動詞文を「題述文」としている。 上にも述べたように、三尾はこの ような動詞文を「判断文」としている。 この場合の動詞文という概念は佐久間のいう「動詞文」と違う。 佐久間は事件の成り行きを述べる「動詞文」を「物語文」と呼んで、「が」を取るのが普通であると述べている。 ( 20)のような例文に触れていない。 ( 21)山が見える。 ( 21)について、佐治は「客観的な状態の存在と同時にそれに対する話し手の認知の表現が、不可分の形で表現されたものである」ので、「形容詞文の場合と同様、状況に対してその状態の存在を認知した」ことで、この文が「状況 ・ 陰題」の文に属すると述べている。 佐久間 はこの文を「物語文」として、三尾は「現象文」としている。 (野田( 1996)はこの文を「無題文」としている。 ) ( 22)雨が降っている。 ( 22)は、主題がなく、叙述部だけで成り立つ文である。 佐治はこのように事物 ・ 現象の存在を言う文を「存現文」と呼んでいる。 佐久間はこの二つの文を「物語文」として、三尾は「現象文」としているのである。 ( 23)雨が降っているのだ。 (三尾 1948) ( 22)の文と違って、( 23)は確認の「のだ」が加わる文である。 佐治はこのような文が存現文ではなく、「状況 ・ 陰題」の文だ としている。 三尾は「判断文」としている。 佐久間はこのような例文に触れていない。 強いて言えば、佐久間の「品定め文」にあたると言える。 以上のことから、佐治は多くの例文を挙げて、詳しく分類して論述していることが分かる。 例えば、三尾のいう「転位文」を「転位 ・ 陰題」の文と呼ぶ。 そのほかに、「状況 ・陰題」の文もあると指摘している。 事物 ・ 現象の存在を表す文について、三尾の「現象文」という呼び方は誤解され やすいと考え、ここでは「存現文」と呼ぶことにする。 佐治は三尾より各場合を詳述して、三尾の学説をさらに厳密にしている ものであると言える。 以上の各学説のまとめから見えるように、後の多くの学者は前の学者の学説を踏まえつつ批判して継承していることが分かる。 例えば、佐治圭三は、三尾砂の「現象文」 ・ 「判断文」の理論に対して、「存現文」 ・ 「題述文」を提出している。 このほかに、三尾砂の「現象文」と「判断文」との区別は、射程の大きなものであるという批判もある。 例えば、 現象文事態の記述 判断文事理の説明 というように表現の在り方の違いとも対応していること、 現象文動詞(述語)文 判断文名詞(述語)文 と、文の構造 の違いとも対応していることが指摘されている。 また、現象文を核とする文章と判断文を核とする文章というように、 現象文物語的文章 判断文説明的文章 と、文章の類別とも対応していることが指摘されている。 永野賢の学説 永野賢( 1972)は、三尾説をふまえ、文章中の文表現の分析から文の類型を捉えようとしている。 永野は、「文は、文章としての連鎖の中において、文脈を踏まえて考えるのが自然だということになる」と、文章における文脈を踏まえた文の把握の重要性を指摘している。 永野賢( 1965)は、「現象文 」と「判断文」の主語について、次のように述べている。 現象文(すなわち「が」の主語の文)における主語は、新事実における主体として表現される事物である。 すなわち、現象文においては、主語 ・ 述語の結びつきが強く、一体となったものであり、いわば主語が叙述の主眼点になる、ということができる。 それに対して、判断文(すなわち「は」の主語の文)における主語は、既知の事物として提出された題目 ・ 論題である。 すなわち、判断文においては、主語と述語とは二つのものであり、その二つを表現者の判断において結合させるのである。 いわ ば述語が叙述の主眼点になる、ということができる。 (永野賢( 1965)) 永野( 1972)は、三尾の学説に即しながらも、述語が動詞現在形(「日がのぼる。 」)や、形容詞 ・ 形容動詞(「空が青い。 」)の文なども現象文に含ませるべきだと考えている。 いわゆる「主語」が「が」になっている文が「現象文」であると三尾説を補足して述べている。 「判断文」についても、三尾説を修訂して、「判断文」を二つに分けている。 一つは、述部が「-である」あるいは「-用言現在形」のものを典型とし、もう一つは、主部が、既出の語または現前 の事物で形作られ、述部が用言のもの(動詞の過去形や「-ている」形、形容詞 ・ 形容動詞とその過去形)を典型とする。 要するに、現象文と判断文との区別はほぼ「が」の主語による文と「は」の主語による文との区別だといってよいと述べている。 早川勝広の学説 永野説に従って文章を分析するとき、矛盾が出てくる。 その矛盾を解消するため、早川勝広( 1986)は、「個別的表現」と「一般的表現」という対立枠組によって表現を読み取ろうとする。 さて、個別的表現と一般的表現との立て分けをどう行うか。 今、独立文(文章中の一文 である文脈文に対して、一文で自足自立している文を言う)を事例に考えてみる。 A 犬が吠えた。 „„個別的表現 B 犬は動物だ。 „„一般的表現 A の「犬」は、ある特定のコノ犬を指示(あるいは表示)しているのに対して、 B の「犬」は、アラユル犬(犬一般)を表示している。 A は、コノ犬の吠えるという一回きりの行為(こと )を記述的(あるいは描写的)に表現しているのに対して、 B は、アラユル犬(種)が動物という類に属する(あるいは位置づけられる)という関係を説明的に表現している。 (早川勝広( 1986)) 早川は 「現象文」を「個別的表現」、「判断文」を「一般的表現」というふうに捉えている。 両文の質差の要点は、 A が「時制をもった表現」であり、 B が「時制をもたない表現」であると指摘している。 そして、表現と認識の関係は個別的表現――感性的認識、一般的表現――理性的認識と対応すると述べている。 早川は、三尾説を踏まえつつ、さらに「現象文」と「判断文」の類型を詳しく分類している。 表現を個別 ・ 一般の対立枠。
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