草枕__日文版内容摘要:

比みくら べた。 画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は 高砂たかさご の媼ばば と、 蘆雪ろせつ のかいた 山姥やまうば のみである。 蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは 物凄ものすご いものだと感じた。 紅葉もみじ のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。 宝生ほうしょう の 別会能べつかいのう を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。 あの 面めん は定めて名人の刻んだものだろう。 惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、 穏おだ やかに、あたたかに見える。 金屏きんびょう にも、 春風はるかぜ にも、あるは桜にもあしらって 差さ し 支つ かえ ない道具である。 余は天狗岩よりは、腰をのして、手を 翳かざ して、遠く向うを 指ゆびさ している、袖無し姿の婆さんを、春の山路やまじ の景物として 恰好かっこう なものだと考えた。 余が写生帖を取り上げて、今しばらくという 途端とたん に、婆さんの姿勢は崩れた。 手持無沙汰てもちぶさた に写生帖を、火にあてて 乾かわ かしながら、 「御婆さん、丈夫そうだね」と 訊たず ねた。 「はい。 ありがたい事に達者で ―― 針も持ちます、 苧お もうみます、 御団子おだんご の粉こ も 磨ひ きます」 この御婆さんに 石臼いしうす を 挽ひ かして見たくなった。 しかしそんな注文も出来ぬから、 「ここから 那古井なこい までは一里 足た らずだったね」と別な事を聞いて見る。 「はい、二十八丁と申します。 旦那だんな は 湯治とうじ に 御越おこ しで …… 」 15 「込み合わなければ、少し 逗留とうりゅう しようかと思うが、まあ気が向けばさ」 「いえ、戦争が始まりましてから、 頓とん と参るものは御座いません。 まるで締め切り同様で御座います」 「妙な事だね。 それ じゃ 泊と めてくれないかも知れんね」 「いえ、御頼みになればいつでも 宿と めます」 「宿屋はたった一軒だったね」 「へえ、 志保田しほだ さんと御聞きになればすぐわかります。 村のものもちで、湯治場だか、隠居所 だかわかりません」 「じゃ御客がなくても平気な訳だ」 「旦那は始めてで」 「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」 会話はちょっと 途切とぎ れる。 帳面をあけて 先刻さっき の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が 聴きこ え出した。 この声がおのずと、 拍子ひょうし をとって頭の中に一種の調子が出来る。 眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。 余は鶏の写生をやめて、同じページの 端はじ に、 春風や 惟然いねん が耳に馬の鈴 と書いて見た。 山を登ってから、馬には五六匹逢った。 逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。 今の世の馬とは思われない。 やがて 長閑のどか な 馬子唄まごうた が、春に 更ふ けた 空山一路くうざんいちろ の夢を破る。 憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても 画え にかいた声だ。 馬子唄まごうた の 鈴鹿すずか 越ゆるや春の雨 と、今度は 斜はす に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。 16 「また誰ぞ来ました」と婆さんが 半なか ば 独ひと り 言ごと のように云う。 ただ 一条ひとすじ の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。 最前 逢お うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を 下くだ り、思われては山を登ったのだろう。 路 寂寞じゃくまく と古今ここん の春を 貫つらぬ いて、花を 厭いと えば足を着くるに地なき 小村こむら に、婆さんは 幾年いくねん の昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、 今日こんにち の 白頭はくとうに至ったのだろう。 馬子まご 唄や 白髪しらが も染めで暮るる春 と次のページへ 認したた めたが、これでは自分の感じを云い 終おお せない、もう少し 工夫くふう のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。 何でも 白髪という字を入れて、 幾代の節 と云う句を入れて、 馬子唄 という題も入れて、春の 季き も加えて、それを十七字に 纏まと めたいと工夫しているうちに、 「はい、今日は」と実物の馬子が店先に 留とま って大きな声をかける。 「おや源さんか。 また城下へ行くかい」 「何か買物があるなら頼まれて上げよ」 「そうさ、 鍛冶町かじちょう を通ったら、娘に 霊厳寺れいがんじ の 御札おふだ を一枚もらってきておくれなさい」 「はい、貰ってきよ。 一枚か。 ―― 御秋おあき さんは 善よ い所へ片づいて仕合せだ。 な、 御叔母 おば さん」 「ありがたい事に 今日こんにち には困りません。 まあ仕合せと云うのだろか」 「仕合せとも、御前。 あの 那古井なこい の嬢さまと比べて御覧」 「本当に御気の毒な。 あんな器量を持って。 近頃はちっとは具合がいいかい」 「なあに、相変らずさ」 「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。 17 「困るよう」と源さんが馬の鼻を 撫な でる。 枝繁えだしげ き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の 塊かた まりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮か りの 住居すまい を、さらさらと 転ころ げ落ちる。 馬は驚ろいて、長い 鬣たてがみ を上下うえした に振る。 「コーラッ」と 叱しか りつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の冥想めいそう を破る。 御婆さんが云う。 「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ 眼前めさきに散らついている。 裾模様すそもよう の 振袖ふりそで に、 高島田たかしまだ で、馬に乗って …… 」 「そうさ、船ではなかった。 馬であった。 やはりここで休んで行ったな、 御叔母 おばさん」 「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に 斑ふ が出来ました」 余はまた写生帖をあける。 この景色は 画え にもなる、詩にもなる。 心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、 花の頃を越えてかしこし馬に嫁 と書きつける。 不思議な事には 衣装いしょう も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。 しばら くあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの 面影おもかげ が忽然こつぜん と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。 これは駄目だと、せっかくの図面を 早速さっそく 取り 崩くず す。 衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から 奇麗きれい に立ち 退の いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、 朦朧もうろう と胸の底に残って、 棕梠箒しゅろぼうき で煙を払うように、さっぱりし 18 なかった。 空に尾を 曳ひ く 彗星すいせい の何となく妙な気になる。 「それじゃ、まあ御免」と源さんが 挨拶あいさつ する。 「帰りにまた 御寄およ り。 あいにくの降りで 七曲ななまが りは難義だろ」 「はい、少し骨が折れよ」と源さんは 歩行あるき 出す。 源さんの馬も歩行出す。 じゃらんじゃらん。 「あれは 那古井なこい の男かい」 「はい、那古井の源兵衛で御座んす」 「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、 峠とうげ を越したのかい」 「志保田の嬢様が城下へ 御輿入おこしいれ のときに、嬢様を 青馬あお に乗せて、源兵衛が覊絏はづな を 牽ひ いて通りました。 ―― 月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」 鏡に 対むか うときのみ、わが頭の白きを 喞かこ つものは幸の部に属する人である。 指を折って始めて、五年の流光に、転輪の 疾と き 趣おもむき を解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ 仙せん に近づける方だろう。 余はこう答えた。 「さぞ美くしかったろう。 見にくればよかった」 「ハハハ今でも御覧になれます。 湯治場とうじば へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」 「はあ、今では里にいるのかい。 やはり 裾模様すそもよう の 振袖ふりそで を着て、高島田に 結い っていればいいが」 「たのんで御覧なされ。 着て見せましょ」 余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外 真面目まじめ である。 非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。 婆さんが云う。 「嬢様と 長良ながら の 乙女おとめ とはよく似ております」 「顔がかい」 19 「いいえ。 身の成り行きがで御座んす」 「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」 「 昔むか しこの村に長良の乙女と云う、美くしい 長者ちょうじゃ の娘が御座りましたそうな」 「へえ」 「ところがその娘に二人の男が一度に 懸想けそう して、あなた」 「なるほど」 「ささだ男に 靡なび こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い 煩わずら ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云う歌を 咏よ んで、 淵川ふちかわ へ身を投げて 果は てました」 余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな 古雅こが な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。 「これから五丁東へ 下くだ る と、 道端みちばた に 五輪塔ごりんのとう が御座んす。 ついでに長良ながら の 乙女おとめ の墓を見て御行きな され」 余は心のうちに是非見て行こうと決心した。 婆さんは、そのあとを語りつづける。 「那古井の嬢様にも二人の男が 祟たた りました。 一人は嬢様が京都へ修行に出て御出おい での頃 御逢おあ いなさったので、一人 はここの城下で随一の物持ちで御座んす」 「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」 「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な 理由わけ もありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて …… 」 「めでたく、 淵川ふちかわ へ身を投げんでも済んだ訳だね」 「ところが ―― 先方さき でも器量望みで 御貰おもら いなさったのだから、随分大事には 20 なさったかも知れませぬが、もともと 強し いられて御出なさったのだから、どうも 折合おりあい がわるくて、御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。 ところへ今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。 それから嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。 世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。 もとは 極々ごくごく 内気うちき の優しいかたが、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。 …… 」 これからさきを聞くと、せっかくの 趣向しゅこう が 壊こわ れる。 ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て 羽衣はごろも を帰せ帰せと 催促さいそく するような気がする。 七曲ななまが りの険を 冒おか して、やっとの 思おもい で、ここまで来たものを 、そうむやみに俗界に引きずり 下おろ されては、 飄然ひょうぜん と家を出た 甲斐かい がない。 世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の 臭にお いが 毛孔けあな から 染込しみこ んで、 垢あか で 身体からだ が重くな る。 「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚 床几しょうぎ の上へかちりと投げ出して立ち上がる。 「 長良ながら の五輪塔から右へ 御下おくだ りなさると、六丁ほどの近道になります。 路みち はわるいが、御若い方にはその 方ほう がよろしかろ。 ―― これは多分に御茶代を ―― 気をつけて御越しなされ」 三 昨夕ゆうべ は妙な気持ちがした。 宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の 具合ぐあい 庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。 何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。 昔むか し来た時とはまるで見 21 当が違う。 晩餐ばんさん を済まして、湯に 入い って、 室へや へ帰って茶を飲んでいると、小女こおんな が来て 床とこ を 延の べよかと 云い う。 不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、 晩食ばんめし の給仕も、 湯壺ゆつぼ への案内も、床を敷く面倒も 、ことごとくこの小女一人で弁じている。 それで口は 滅多めった にきかぬ。 と云うて、 田舎染いなかじ みてもおらぬ。 赤い帯を 色気いろけ なく結んで、古風な 紙燭しそく をつけて、廊下のような、 梯子段はしごだん のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も 降お りて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、カンヴゔスの中を往来しているような気がした。 給仕の時には 、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段ふだん 使っている部屋で我慢してくれと云った。 床を延べる時にはゆるりと御休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、次第に下の方へ 遠とおざ かった時に、あとがひっそりとして、人の気け がしないのが気になった。 生れてから、こんな経験はただ一度。
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